チェンジ理論イントロション

イントロ・目次

メンタルヘルスは平準化されていない

チェンジ理論の目的は、メンタルヘルスを平準化することにある。メンタルヘルスと言うと、精神疾患の治療や予防をイメージするだろう。しかし、それは医療に限ったものではないはずだ。例えば、友人と会話するときも、転職先を考えるときも人の精神は活動しているし、子どもを叱るときや事業計画を立てるときの精神状態は、それらの結果に大きな影響を及ぼす。仕事や育児、夫婦関係、教育、福祉、マネジメント、近所づきあいなど。むしろ精神的な健康が一番いっさい関係しない活動などありえない。組織が個人の集合である以上、会社や団体、市区町村などあらゆる社会集団もその影響を受ける。それほど重要なものであるにも関わらず、メンタルヘルスは平準化されていない。健康と不健康の定義は曖昧で、健康になれる方法はどれもあやふやなものばかりだ。多種多様な意見が飛び交っており、交通整理される気配もない。これはもう無法地帯といってもよいだろう。

健康と不健康の境界線はどこにある?

メンタルヘルス、精神的な健康というのは、そもそも何なのだろうか。おそらく精神の疾患や障害がない状態のことを健康と定義するのが一般的なのだろう。病気でなければ健康というわけだ。健康と不健康を隔てる境界線があり、それを越えるかどうかでメンタルヘルスが決定する。だとしたら、健康と不健康、異常と正常の境界線は信頼に足るものでなくてはならない。例えば、境界線の位置が鼻から間違っているとか、それがコロコロ変わるとか、診る人によって判断がブレるようなものではいけないということだ。それでは健康も不健康も定義ができなくなってしまう。それが何なのかを知らないのに、それを達成することなどできるだろうか。

精神的な健康の境界線は目に見えない

問題は、精神的な健康に物理的な実体がないことにある。例えば、アメリカとカナダの境界線というのはハッキリしている。目印が見えるため、判断が分かれることはない。他にも、高血圧かどうかの診断も簡単である。数字で確認できるため、異論を挟む余地はない。目で見えたり、数字で測れるものは判断の基準が明確にある。メンタルヘルスにはそれがない。つまり、どこまでが不健康でどこからが健康なのか、ハッキリしないのだ。だとすれば、投薬治療や心理療法の成果にバラツキが出る理由も納得できる。それは例えば、テニスでどこにボールを落とせば点が入るのか、知らずに試合するようなものだ。勝てたとしてもそれは偶然だろう。

“精神障害の診断と統計マニュアル”

テニスは人が考えたものであり、当然、ルールが存在する。しかし、精神活動というのは人が決めたからあるわけではない。少なくとも病気という概念が生まれるはるか以前からあるものだ。精神的な健康に決まりなどない。ということは、すでにある境界線を探すのではなく、何もないところに任意で線を引くことになる。おそらくここが健康と不健康の境界線なのだろう、と。現在、もっとも広く普及している不健康の境界線が、「精神障害の診断と統計マニュアル」通称、DSMだ。DSMがあれば、うつ病や自閉症、摂食障害などの症状について、共通の理解を得ることができる。直感や経験に頼らなくても、健康と不健康、正常と異常の境界線が分かるのだ。これでやっと、メンタルヘルスという試合のルールが理解できたことになる。

“DSM”が見当違いの可能性もある

しかし、DSMという境界線が正しいかどうかは分からない。まずは誰かが線を引かなければ、正しいかどうか検証することもできなかったのだ。とりあえず引いた線引きがいきなり正解というのも少々できすぎた話である。現実というのは残酷なものだ。いかに膨大な時間と労力を掛けようと、それらは正しさとは関係がない。たとえそれが世界で最高峰の頭脳が導き出した答えでも、自然の産物の前では無力なものだ。多大な犠牲を支払った結果、そうではなかったことだけが分かるという現実もあるだろう。つまり、DSMの境界線が見当違いという可能性がある、ということだ。それを示唆する結果のうち、代表的なものが、診断のインフレである。

なぜ”診断のインフレ”が起こったか?

診断のインフレとは、疾患の診断が爆発的に増加する現象を指す。DSMが普及して以来、米国における双極性障害の診断は、 わずか15年で二倍に増えた。より注目するべきは子どもの診断数である。例えば、ADHDは三倍、自閉症は20倍、双極性障害に至っては40倍に増加したという。病気が増加したわけではない。増えたのはあくまで診断数だ。そのうち、どのぐらいが本来的な異常だったかを確かめる方法はない。しかし、すべてがそうであると信じるには、あまりに数字が大きすぎる。冷静に考えてみよう。例えば、子どもが注意散漫で落ち着きがないとか、社交性がないのは異常なのだろうか。それは教育で改善する余地はなかったのだろうか。不健康の範囲が広すぎたとか、境界線の位置がズレたなどの可能性はないのだろうか。米国における精神疾患の生涯有病率は5割を超えるという。それは本当に信頼してよい数字だろうか。

“とてつもない勘違いである可能性”

以上は、精神医療の基準が正しくない可能性の示唆に過ぎない。もちろん、正しいかもしれないし、そうでなくても最善のものかもしれない。しかし同時に、とてつもなく壮大な勘違いをしている可能性も十分にある。かつて身体の病気が悪魔の仕業と考えられていたように。だとしたら、これはとんでもないことだ。正常な反応が異常とみなされ、無用な投薬治療で本当に異常をきたした人がいたかもしれない。反対に、何らかの目的を果たすために、正常な人が異常と診断されるのを手助けした可能性もある。そのしわ寄せを受けて、必要な治療を受けられなかった人もいるだろう。もちろん、正しい診断と治療のおかげで豊かな人生を取り戻せた人もたくさんいる。その実態を知ることは難しいが、想定外の結果が起きていることは間違いないだろう。だとしてもそれも前進である。過去の犠牲を無駄にしないためには、結果を検証し、より役に立つ境界線を考えるしかない。

なぜ既存の境界線が改められないのか?

しかし、精神医療の基準が見直される気配はない。精神科医や臨床心理士は何事もなかったかのように、いつも通り既存の線引きで仕事をしている。診断が爆発的に増えていることを知らないわけでもない。大きな変化がないのは、何か事情でもあるのだろうか。すぐに思いつくものはいくつかある。 例えば、完成したものをご破算にするのは誰にとっても難しい。それに完成したものが、他で利益をもたらしているなら、なおのことだ。さらに完成したもの以外の代替案がないことも大きな問題だろう。一つ目の事情を解消するには、大きな流れに逆らう勇気が必要となる。二つ目の事情は、医療や製薬業界の利益という経済の問題を考えなくてはならない。いずれもかなりやっかいである。しかし三つ目の事情のやっかいさは次元が違う。つまり、他に妥当な境界線が見つからないのだ。

精神的な異常にバイオマーカーはない

意外かもしれないが、原因が分かっている精神疾患は一つもない。遺伝子研究から分かったのは遺伝子的な原因がないということだけだ。分子生物学や神経科学、遺伝学の研究からは精神疾患の原因は見つかっていない。例えば、うつ病の原因は神経伝達物質の異常、という考え方もあくまで仮説の一つである。投薬治療の基盤にあるモノアミン仮説が登場したのは、もう70年も前のことだ。しかし、いまだ仮説が実証されることはなく、むしろ批判されることの方が多い。身体的な病気と決定的に違うのはこの点だろう。身体の病気にはバイオマーカー、 状態を評価する客観的な指標があり、それが診断や治療の目安となっている。例えば、糖尿病の診断と治療には血糖値という生理学的なマーカーが役に立つ。しかし、精神的な病気の生理的、生物学的なマーカーはいまだ見つからない。世界中の科学者が膨大な数の研究を重ねても、その可能性も見つけられないのだ。それが本当にあるものなのか、もはやそれさえも疑わしい。

健康とは”病気でないこと”ではない

精神的な健康の定義を少し考え直してみよう。世界保健機関は健康をこう定義する。健康とは病気でないことではなく、すべてが満たされた状態にあることをいう、と。つまり、病気という概念に縛られる必要はないということだ。そもそも身体の病気と同じ枠組みで考える必要はあったのだろうか。よく似て見えるだけでまったく異質なものという可能性もある。例えば、大事な家族を亡くした人が二週間以上、悲しみに暮れたり、意欲を失うのは正常な反応とは言えないだろうか。正常が異常に変わる境界線を客観的に測定できない以上、異常のハードルが緩くなるのは予測できた結果である。なぜなら、薬で悲しみが消えるのはラクだからだ。そこから自力で脱するために、他人の助けを借りるのが理想的なのは言うまでもない。病気や異常のハードルが下がれば、正常な回復を練習する機会を逃してしまう。そもそも病気とは何なのか。当たり前の概念をあえて疑ってみよう。

絶対的な基準の方向は行き詰まっている

まず病気と疾患は同じものではない。疾患というのは症状と原因の因果関係が明確なものを指す。つまり、精神的な異常は疾患ではないということだ。どれも症候群か障害である。一般的に、それらをひっくるめて病気と呼んでいるに過ぎない。 例えば、適応障害や統合失調症、社交不安障害などが、内臓疾患と同じように治療するべきものか、十分に検討したのだろうか。投薬治療を否定するわけではないし、それが必要な人はいる。しかし、投薬以外で回復できる余地があるなら、それに越したことはない。なぜなら薬は副作用をもたらすからだ。どんな弊害があるかも未知数である。ましてや薬で回復しないのなら、他の道を模索するべきだろう。精神医療の世界は迷路のようなものだ。あるかないかも分からないゴールを目指し、絶対的な基準という方向に向かって歩みを進めてきた。しかし、どうやら本当に行き止まりのようだ。そろそろ方向を改めるべきではないだろうか。

正常か異常かは”コンテクスト”で変わる

仮に道を後退するとして、どこまで戻るかを考えてみたい。まずイメージで丸い円を描いてみて欲しい。その円の内側が病気や異常、外側が健康や正常である。この考え方を病気モデルと呼ぶことにしよう。病気モデルには、絶対的な基準が欠かせない。絶対的な基準というのは、その円の大きさが変わらないことを意味する。もちろん、文化や時代、国家の主義によって左右されるものではいけない。例えば、パートナー以外の異性と性交渉を繰り返すのは異常なことだろうか。一夫多妻や重婚、儀式的性交が認められている文化もある。どうも絶対的な異常ではないらしい。では次の例はどうだろうか。利害が対立する相手と衝突することぐらいよくあるものだ。いかに憎かろうと、その相手を食べてしまうのは異常としか思えない。しかし、殺害した多民族の遺体を食べる部族は、つい最近まで存在した。彼らは精神の病気だからそうしたのだろうか。精神的に正常か異常か、その判断はコンテクスト、つまり状況に依存する。絶対的な基準は現実的ではないかもしれない。

メンタルヘルスと病気モデルは合わない

身体の病気で、そんな馬鹿げたことは起こらない。どこの国に行こうが肝硬変も緑内障も病気であり、診断や治療のプロセスもそう変わらない。病気モデルというのはとにかく分かりやすいのだ。しかしそれは絶対的な基準があれば、という条件つきである。残念ながら精神的なものに指標はないし、文化や時代背景で境界線がコロコロ変わる。精神的な状態は捉えどころがなく、まるで水のようだ。それそのものに形状がないため、容れ物に合わせて自由に姿を変える。そんな不安定なものに病気という画一的な概念はそぐわない。現状、メンタルヘルスと病気モデルの相性は最悪と言ってよい。バイオマーカーなしに絶対的な健康と不健康を定義しても勝ち目はないだろう。では、絶対性と相対性の分岐点まで道を戻ってみてはどうだろうか。

病気モデルから”表現モデル”へ

基準の絶対性を手放せば、文化や時代による揺れも柔軟にカバーできるだろう。それに病気という概念に縛られる必要はなくなる。病気モデルの代わりに表現モデルというのを据えてみよう。例えば、うつ症状もパニック症状も、一つの表現として捉えるのだ。ヒステリーや注意欠陥、多動性なども表現とみなす。それだけではない。配偶者以外との過度な性交渉や食人行為も表現の一つである。仕事で目標を達成するとか、新しいレシピを開発するとか、テストで満点を取るのもすべて表現の一つだ。多様な表現の良し悪しを決定づけるのは社会的有用性である。つまり、その社会で生産的に機能している表現を健全とし、そうでない表現を不健全とみなす。どんな表現も所属社会の常識や規範と照らし合わせるのだ。人の精神活動は他人や社会との関係性によって変わる。どんなに逸脱して見えても、それが生産的に機能している限り、その人の精神は穏やかに保たれているだろう。

教育者や支援者=”アクティベーター”

表現モデルは精神的な健康を平準化できる可能性を秘めている。もちろん、精神医療という小さな円の内側に留まる必要もない。あらゆる表現を一つの物差しで測定できるのだ。学校教育や子育て、福祉、看護、経営、マネジメントなど。どんな分野でも教育や指導、再教育のパフォーマンスを向上させることができるだろう。人は元々、異常を克服し、正常に回復する能力を持っている。例えば、超回復によって筋肉が少し増えるのと同じように、精神的な健康さも計画的に鍛えることが 可能だ。社会が理不尽なのは当たり前で、期待通りでない現実はいつでも起こりうる。それでも前向きに生きるには、他人の支援が欠かせない。配偶者や友人、同僚の支えがあるならそれに越したことはないだろう。しかし、自然な支援が得られない場合、第三者が支えなくてはならない。本来、人が持っている精神的回復力を活性化させるのが支援者の役割である。その役割の本質を見失わないように、チェンジ理論では教育者や指導者のことをアクティベーターという名称で呼んでいる。

なぜいつまでも試合に勝てないのか?

不謹慎な例えだが、精神的な回復を支援する行為を一つのスポーツと考えて欲しい。例えば、薬物療法や認知行動療法は、そのスポーツで良い成績を出すための技術である。しかし、ルールを勘違いしている可能性がある以上、それらが機能しないのは当たり前ではないだろうか。点が入ったと思ったのに試合に負けるのは、もしかしたら技術以前の問題かもしれない。彼らは対象者を不活性化することがよくある。指導を受け入れない相手を叱責したり、本人が考えるべきことを代わりに考えてあげたり。知識や技術をいかにうまく再現しようとも、それがルールに則っていなければ意味がない。相手の健全さが活性化しないなら、それは失敗である。

すべてを解決できる”チェンジ理論”

チェンジ理論の位置付けは、今あるスポーツで高得点を出すためのものではない。むしろ新しいスポーツのルールブックに近いだろう。精神的な健康や不健康の境界線を引き直し、支援のルールそのものを変えてしまうのだ。その上で結果を出せるかどうかは選手の腕次第である。もちろん、不健全から健全へと効果的に導くための技術指導も行っていく。バラツキのあった成果に一貫性を見出すことができるはずだ。たとえうまくいかなくても、なぜ失敗したのか、どうすればうまくいくのかがハッキリ分かる。チェンジ理論を理解すれば、本気で悩むことがなくなるだろう。どうすれば最善か、すぐに分かるからだ。他人や環境のせいにすることもなくなるし、人生の主導権を取り戻せば可能な限り最大のパフォーマンスを発揮できるはずだ。能力を発揮する分野は、人によって異なる。例えば身体障害やトラウマの克服なのか、夫婦関係や経営の改善なのか、スポーツや進路の指導なのか。対象の幅は限りなく広い。チェンジ理論を使えば、どんな問題も解決できるだろう。

あらゆる問題を一つの枠組みで評価する

すべての問題を解決するというのは決して誇張表現ではない。もちろん、ものごとが勝手に思惑通り進むとか、念じれば欲しいものが手に入るとか、手軽に大金が入ってくるとかいう意味ではない。どうにもならないことはあるし、どうにかするには行動が欠かせない。しかし、人がなしうる最善の結果を最速で実現するためのツールにはなるだろう。例えば、幻聴を消したり、ポジティブな時間を増やしたり、難しい目標を達成したり、夫婦関係を改善したり、子どもの自立を促したり、社内の風通しを良くしたり、事業計画を実現させたり、戦争や貧困をなくしたり。様々なことができるはずだ。最大の利益は、それら無関係に見える有象無象の問題を、たった一つの物差しで測れることにある。

必要なものの多くを人は欲しがらない

ただし多くの消費者は本理論に魅力を感じないだろう。何でもできるという便益は、何が欲しいのか、ニーズありきの自由市場と相性が合わないのだ。人が欲しがるものの多くは必要がないし、必要なものの多くを人は欲しがらない。だからと言って本理論をバラバラにし、無数の方法論に焼き直している時間もない。ここまで読み進めたということは、あなたは精神医療や対人支援のプロフェッショナルなのだろう。もしくは経営者や管理者、教師、親、指導者のなかでも賢明な方に違いない。チェンジ理論の習得後は、自身の専門分野で具体的な方法論に落とし込んでもらうことを期待する。その他大勢を遠く引き離す、圧倒的な差別化の資源になるだろう。

誰かが何とかしてくれる”は不健全

本理論が正しいかどうかは不明だ。とんでもない勘違いの可能性もある。DSMのように想定外の大問題を引き起こすかもしれない。しかし、代替案がないからと指を咥えて見ていても問題は解決しない。メンタルヘルスの現状に疑問を持ちながら、行動を起こさないのはなぜだろうか。誰かが何とかしてくれる。そう思っているのならそれは少し不健全かもしれない。大きな流れに逆らう勇気は、誰にとっても必要なものだ。一人ひとりが行動を起こせば、どんなに大きな流れも変わる。DSMは決して失敗したわけではない。巨大な問題に切り込んだ勇気ある挑戦であり、それを改善するのは問題意識を感じている私たちの仕事だ。その挑戦を無駄にしないためには誰かが後に続く必要があるだろう。

傍観者はやめて解決の当事者になる

私たちは医療の専門家ではない。本来、口出しする立場でないことも承知している。もし精神医療が医学の外にも手を伸ばしてくれるなら、潔く身を引くつもりだ。しかし、それにはまだ少し時間がかかるだろう。医療がまごついている間も苦しんでいる人はいるし、人生を終える人もいる。メンタルヘルスの問題は医療分野に限らず、社会全体で今後も増えていくだろう。その増加に対応できるほど、腕の良い支援者が多くいるとは思えない。天才心理療法家が一人いるだけでは追いつかないのだ。言葉は悪いが、平均以上のパフォーマンスを発揮できる支援者を量産する必要がある。心理支援は楽しいだけの仕事ではない。やりがいを感じるとしたら、対象者が精神的に回復したときだろう。支援の成功率を高めるのに妥協などしないで欲しい。傍観者をやめ当事者として、この巨大な問題の解決に力を貸してもらえれば幸いである。

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