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いじめの機能的な側面に目を向ける
社会がいまもいじめを根絶できないのは、社会を構成している私たち、一人ひとりが、いじめの機能を正しく理解していないからです。
いじめに機能などあるものか!
そう思うのは自由です。しかしそれは価値観であり、悪いものだから機能的な側面などあるはずがない、と考えるのは短絡的すぎます。
例えば、高熱にうなされることは誰にとってもよいことではありません。悪いものだから機能的な側面などあるはずがない?あります。
人が発熱するのは、侵入したウイルスを死滅させるためであり、たとえ不快でよくないものでも、起きている限り必ず機能があります。
いじめという現象についても同じことです。
いじめを根絶したければ、いじめが持つ機能的な側面に目を向ける必要があるでしょう。
人という生物の生態、分業すること
まずは人という生物の生態を理解して下さい。
人の身体構造はとても弱く、単独で生き延びることができません。古今東西、例外なく、人は社会集団に所属して生き延びてきました。
衣食住のような生産活動を分業し、価値を交換しあうことでお互いの生存を維持する。
これが人という生物の生態です。
血縁以外とも分業する生物は多くありません。
125万種いる生物種のうち、分業が生態に組み込まれている生物はわずか20種類程度、
その一つが私たちホモ・サピエンスです。
実際、私たちも国家や自治体に所属して生きています。自覚の有無と関係なく、社会集団に所属せず生きている人は一人もいません。
コストを支払わず、恩恵を受ける人
集団生活は個人のためのものではなく、あくまで集団全体を維持することが最優先です。
例えば、村を津波から守る防波堤を築くことになった場合、村民は手伝いを求められます。
資金を提供する、資材を調達する、現場で作業する、それを監督する、食料を届ける、
様々な助け合いが必要となるでしょう。協力しなければ、防波堤を築くことはできません。
このとき正当な理由なく建築に協力しない人がいたら、どんなことが起きるでしょう?
その人は労働や資金というコストを支払わず、防波堤の恩恵を受けることになります。
そして他の村民から嫌われるはずです。
なぜ非協力的な人を追い出すのか?
これがいわゆる村八分の構造です。
例外を除き、非協力的な人を助け合いから外すこと、それが村八分の本質になります。
コストを支払わず恩恵を受け取る人を放置すれば、いずれ誰も協力しなくなるでしょう。
そうなれば集団は維持できません。人が所属集団なしで生き延びることは不可能です。
非協力的な人を制裁する行為は、一人ひとりが生き延びるため社会集団を守る、そのために必要な機能だったということになります。
なぜか分からないがいじめたくなる
いじめの起源は、この村八分にあります。
楽しくていじめるのではありません。全体を守るため必要だからこそ、そうするのです。
なぜか分からないが村八分にしたくなる、いじめたくなるのは、その人が集団全体の動きや論調に協力的な態度を取らないから、です。
現代社会はそれを個性と呼びます。
しかし、脳や神経を含め、人の身体構造は十数万年もの間、基本的に進化していません。
非協力的で個性的な他人を仲間外れにしたくなる。人のメンタルはそうできています。
まとめ
個性は大事にするべきだ
差別やいじめはいけない
ダイバーシティの時代だ
価値観が多様化しているのは事実です。
しかし、残念ながら人の精神構造は、単一的な価値観や全体主義に適応しています。
いくら理性が個性や多様性を叫ぼうとも、感情や感覚、情動が同意してくれないのです。
実際、学校だけでなく、理性的なはずの大人が集まる職場でも、いじめは起きています。
例えば、能力の低い社員を窓際や閑職に追いやるのは、会社を維持するため、社員やその家族を守るために必要なことでもあります。
いじめという表面化した問題を抑えるのは大事です。そしてその裏にある本質を掴んで根こそぎ問題を抜き取ることも大事なはずです。
本気でいじめを根絶したいと思うなら、人という生物の生態をもっと学ぶべきでしょう。