世にも不思議な精神障害と治療法の歴史、精神医療の奇妙な世界へようこそ

精神医療が黒すぎる

医師が教えない精神医療の黒すぎる事実(簡易版)うつ病流行の裏にある真実

2019年5月25日

西洋の精神疾患の歴史・体液説

紀元前400年代、ソポクレス最古の作品でギリシャ悲劇の一つアイアスで、主人公が正気と狂気を繰り返し、自殺に至る様が描かれており、作中では、気の病、という表現されている。

エウリピデスによるギリシャ悲劇、ヒッポリュトスで、女神アフロディテによって、王妃パイドラーが、まるでうつ病のような状態にされる描写がある。気分変調、食欲不振、倦怠感、自責の念など精神症状の果てに自殺している。

ギリシャ悲劇における精神疾患の原因は神に対して不敬を行なった罰であると描かれている。

ギリシャ時代の医学の基本は体液説にある。血液、黄胆液、黒胆液、粘液、これらのバランスが崩れた結果が病であると考えられていた。憂鬱の病は黒胆液のバランス不全とみなされ、ギリシャ語で黒を表すメラス、胆汁を表すコレーを合わせて、メランコリーと呼ばれていた。

ヒポクラテス全集には三箇所、メランコリーという言葉が記載されている。ヒポクラテスは、精神の座は脳にあり、狂気は脳の湿潤によって起きるなど憂鬱と脳の関連性に言及している。

アリストテレスは体液説をもとに季節や気温、熱、乾などの概念を用いながら、精神症状、メランコリーが起きる仕組みを解説している。

アリストテレスは思慮、理性に関する諸問題の一つとして、どんな領域であれ並外れたところを示した人間は明らかにメランコリーであり、しかもそのうちのあるものに至っては、黒い胆汁液が原因の病気にとりつかれるほどのひどさである、と述べている。その代表例としてヘラクレス、プラトン、ソクラテスを挙げている。

旧約聖書には紀元前千年頃のイスラエルの初代国王サウルが、神から決別を宣言されてことでうつ病のような状態になる様が描かれている。自信喪失や無気力、その後は錯乱、聖職者の大量虐殺、実子殺害企図、最後は自殺している。

旧約聖書、ヨブ記の主人公、ヨブは神から罰を与えられ、家族や財産を失い、皮膚病になる。精神科医、カーンはヨブについて、自らを高潔な完全主義者とみなす強迫的傾向、災難を受けても怒りや恐怖を抑えつけるため、結果的に心身症として皮膚病になった、と論考している。

ローマ時代の医師、ソラヌスの記録にこう残されている。メランコリーはうなだれているが怒る傾向もある。喜んだり、リラックスすることはまずない。心配に満ち元気が無く無口で、家族に敵意を持ちら死を願うときもあり、陰謀を疑い、わけもなく泣き、愚痴り、胃腸症状や身体愁訴がやたら多い。黒胆汁によるものではなく脳が病巣なのではなく、食道の病気である。

ソラヌスは、興奮状態に陥る精神的な病気という意味のマニーについても記述している。マニーは持続性のことも発作性に起こることもあるが、凶暴になったり、悲観したり、はしゃいだり、道化になったり、不安状態を示し、自らを雀、鶏、土器、神、俳優、全世界の中心、乳児であると考える。目は充血、身体が硬く、異常に力んでいる。現代の躁状態とよく似ている。

ローマ時代の医師、アレタイオスはマニーとメランコリーの関係についてこう述べている。以前、マニーであった人がメランコリーになりやすい。このことからメランコリーというのはマニーの初め、またはその一部と思われる。現代の躁うつ病、双極性の概念とよく似ている。

500年代、ビザンチンの医師、トラーレスのアレクサンドロスは、メランコリーにかかったものはそれだけに苦しむのではない、彼らは周期的に躁状態になる。マニーというのは、メランコリー重症型に他ならない、と述べている。

1000年代の医師、アヴィセンナは、マニーとメランコリーは疑いなく同じところから生じる、と述べている。1400年代の医師、まなるどすは、マニーとメランコリーは明らかに違った病気であるが、マニーがメランコリーに置き換わることもまた間違いない、と述べている。

西洋の精神疾患の歴史・悪魔説

ローマ時代における精神の病は身体の病気とみなされていたが中世やルネサンス期では、悪魔の仕業、神の罰など超自然的な原因論が主流となる。治療ではなく処罰されることもあった。

1500年代の医師、パラケルスは、精神病者が悪魔の道具にならないよう火あぶりにしてしまうことを勧める、悪魔に取り憑かれたものは治療することができず、キリストの力、祈祷、断食によってのみ治し得る、メランコリーは悪魔とは何の関係も持たない、悟性がない場合には悪魔もその権利を失うからであり、これは先天的に狂っているのである、などと述べている。

1500年代の医師、ヨハン・ワイヤーは、メランコリーは、その病のゆえに、悪魔に囚われやすくなった人たちであり、魔女は自分の意思で悪魔の王と契約を結んだ者たちであって、それらを混同してはならない、と述べている。

1500年代の医師、ローランはメランコリーについてこう述べている。発熱を伴わない1種のもうろく状態、傍から見ると、まったくいわれのない不安と悲しみが常につきまとうもの。

1800年代の医師、フィリップ・ピネルは、メランコリーはある概念に囚われ、判断を誤ったものと書かれている。メランコリーを引き起こすのは、落胆、沈痛な体験、宗教的熱狂、不幸な恋愛などの強い感情体験をあげている。ギリシャ時代、ローマ時代から続く身体的な病気という考え方が揺らぎつつあることが分かる。

ピネルの弟子、エスキロールは精神障害は全体的精神障害と部分的精神障害に分かれる。部分的精神障害は憂鬱が主体のリプマニーと熱情を伴い限定された対象に向かう慢性狂気であるモノマニーの二種類に分かれる、と述べている。

1800年代から1900年代にかけて、ヨーロッパを中心にヒステリー、神経衰弱、多重人格障害の診断数が急増する。アレン・フランセスはこれらの疾患は、新興である神経科学の権威が引き起こした流行である、と述べている。

西洋の精神疾患の歴史クレペリン

1883年、クレペリンが体系化した精神疾患の分類にメランコリーはない。代わりに大分類としてdepressionが採用された。depressionは落ち込むこと、という一般名詞である。大分類は、落ち込むもの、興奮するもの、周期的にそれらが入れ替わるもの、と三種類あった。

1896年、クレペリン分類の第五版は、素質によるものと後天的なもの、と大分類が変わる。周期性の精神病は素質によるものにありメランコリー、depressionは後天的なものにある。

1909年、クレペリン分類の第八版で、内因、器質因、心因の大分類に変わる。depressionもマニーも周期性のものもすべて躁うつ病にまとめられ、内因性の精神病に分類されている。depressionという病は分類から消えている。

1966年、ペリスは、躁うつ病にも周期性のものとうつ状態のみのものがあるとし、双極病、単極性うつ病という二つの大分類を主張、双極か単極か、それらが内因性か心因性かという二つの軸の議論が盛んに行われるようになった。精神科医、野村総一郎は、神学論争と似ており、誰も決定的に判断できないと述べている。

西洋の精神疾患の歴史・操作的診断

原因論による分類は混乱をきたし、医師同士の診断も一致しないため、精神医学の正当性を疑問視する風潮が生まれる。同時期1960年代、抗うつ効果のあるイミプラミンが登場、モノアミン仮説により生物学的な視点が導入、アメリカで症状による操作的診断の考えが生まれる。

これまでのように自然科学を意識した原因論ではなく、便宜上の定義を人為的に設け、結果を見ながら修正する方針がアメリカを中心に広まる。有用性を真実とみなす1900年代の哲学、プラグマティズムの影響を受けたと思われる。

1952年、米国精神医学界は精神障害の診断と統計マニュアルを出版している。Ⅲ以前のバージョンは内因性や心因性といった原因論に基づく分類を採用、1980年改訂のDSMⅢではすべての精神疾患を定義し、基準の該当数と期間によって診断を平準化するなど大幅変更された。内因性や心因性という分類はなくなっている。

1972年、キールホルツは、うつ病の予防と治療のための委員会を設立、1980年代、米国や英国で、うつ病撲滅キャンペーンが行われた。

DSMⅣは、精神障害、人格障害、身体の病気、ストレス環境因、社会適応レベルを複合的に判断する多軸診断を採用する。解説にDSMは料理本ではない。これを見て、簡単に診断ができると思ってはいけない、と書かれている。

DSMⅣで、うつ病という診断名は消え、代わりに気分障害という診断名が生まれている。 例外的なものとして内因性うつ病の下位項目にメランコリー型という分類が再登場する。病名をカテゴライズせず、病気の特質を程度の差で配置するスペクトラムという概念が登場する。

2500年前、ギリシャ時代のヒポクラテスが挙げたメランコリーの基準は不安、悲しみ、食欲減退、意気消沈、不眠、イライラ、落ち着きのなさ、これらが長期に渡って続くことだった。

DSM5における大うつ病の基準は9つあり、抑うつ気分、興味の減退、体重の増減、不眠・過眠、落ち着のなさ、倦怠感、自責の念、思考力の低下、自殺念慮のうち5つ以上が当てはまりそれが二週間以上続いていること、である。

うつ病は2500年間、さほど変わっていない。歴史家のスタンリー・ジャクソンはうつ病の普遍性について驚くべき一貫性と表現している。

日本の精神疾患の歴史・鬱証(気鬱)

日本のうつ病はもともと鬱証という概念が基盤になっている。鬱証の概念を説いたのは1300年代中国の儒学者、朱震亨、その教えを1500年代初頭、日本に持ち帰ったのが医師、田代三喜、それを伝え広めたのが曲直瀬道三である。

うつ病の鬱という字は、例えば、草木が鬱蒼と生い茂るの鬱であり、ものごとが滞っている様子を示す言葉である。気、湿、熱、痰、血、食のいずれかが体内で滞った結果が鬱証であると考えられていた。鬱証とは気が常態を失って起こる病とされていた。後陽成天皇が28歳のとき鬱証によって衰弱しだという記録がある。

1686年の医学事典、病名彙解の鬱証の項には七情の気が鬱滞して病を生ずる、とある。七情とは喜、怒、憂、思、悲、恐、驚のことだ。

後藤艮山は平和な世の中で、戦国時代に人々を苦しめた外傷による病が減った代わりに、人々は新たな病に悩まされている、と述べている。さらに風寒や飲食など病のきっかけは多くあれど、その人の気がすらすらと流れていれば養生は保たれる、病が起こるのは体内に気鬱という病の準備、内因が存在するためと述べている。

江戸時代の医師、香月牛山は、初めは富貴にして後に貧賤なるもの、あるいは舅姑に得られざる婦人、あるいは夫婦の中和せず、あるいは勤番近習の士が気鬱の病に陥りやすいと述べる。根岸鎮衛は噂話を集めた耳袋で、遊女に恋い焦がれ鬱証を患った男について書いている。浮世草子の作家、江島其磧総じて婦人は気鬱によりしてと女性に鬱証が多いことに言及している。

貝原益軒は、医学的な血行、その他の円環的順行が陰陽の二気の形而上学的な図式の中で進行し、それが阻害さ気に障るのだ、とした。気が進む、気が回る、気を配るなども同様、身体を巡る物理的な循環を指す言葉が大衆化し、いつのまにか気=心という曖昧な認識が定着する。

江戸時代における鬱証は、あくまで身体の病であった。近代に入り、メランコリアの概念が導入されるが、それも身体的な異常に還元される病と認識されていた。和蘭翻訳内科撰要でメランコリアは鬱積した黒胆液が脳に到達した際に精気の常態を狂わせることが原因の病とある。江戸時代後期から近代にかけて、学問と大衆の間で気鬱に関する乖離が広がったと思われる。

1900年代初め、呉秀三によってクレペリンの精神疾患観が輸入され、気鬱やメランコリアは消えてdepressionという概念に置き換わる。近代精神医学の中心にあるのは、病の原因を脳に局在化させる還元主義的原因論だった。伝統的な気鬱が気候や生活習慣、人間関係、心理状態に影響を受ける全人的な病であるのに対し、depressionは解剖学的、局所的視点である。

depressionの日本語訳、うつ病は、次第に躁鬱病の一状態として吸収される。鬱証や気鬱のような比較的、軽症の精神症状として1950年代まで神経衰弱という新たな概念が台頭する。

日本の精神疾患の歴史神経衰弱

神経衰弱のもとはneurasthenia、1868年、アメリカのビアードが提唱した概念である。1800年代までの日本で鬱証や気鬱とされた症状はこの神経衰弱という病名に置き換わる。神経は当時の日本人にとって新しい概念だった。

1906年の讀賣新聞、神経の衛生という記事では、近頃何かにつけて神経神経と伝ふことが流行しているが、人々はこれを正しく理解しておらず、目に見えないものと考えている人が多いと書かれているり、北中敦子によると、当時の新聞記事は気鬱や鬱憂病、神経病といった言葉が混在し、その解釈も混乱している、という。

神経衰弱は躁鬱病などの精神病とは違って、現代人の過労の病と認識されていた。1902年、太陽という雑誌で、過労で疲労が蓄積すると神経衰弱になる、という特集が組まれている。1918年、讀賣新聞に、神経衰弱のことを、我日本人現代の一般の病患、とある。位置づけとしては現代におけるうつ病とよく似ている。

1911年、夏目漱石は現代日本の開花という講演で、大学の教師を十年間も一生懸命にやったら、大抵のものは神経衰弱にかかりがち、ピンピンしているのは、皆嘘の学者であると神経衰弱という言葉を使っている。夏目は近代化を進める日本に対し、せいぜい神経衰弱に罹らない程度に於いて頑張るしかないとも述べている。

当時の新聞は、ウオーガツク(駐日ロシア役人)の神経衰弱、大佐は激度なる神経衰弱に、露皇帝は神経衰弱に、などの見出しが確認できる。アメリカのヘイ国務卿、清国の袁世凱の神経衰弱も報道されている。言葉の使い方から推察するに、精神的疲弊という意味で使われている。

そのほか大審院判事の引きこもり、手形処理に悩む銀行取締役の自殺、京都大学総長の辞職、これらすべてが神経衰弱によるとされている。一般に対しても、疲労を避けて、自己診断と早期治療の必要性をメディアが啓蒙している。大衆に流行する様子も現代のうつ病と似ている。

汽車の揺れで神経衰弱になったとアメリカ人やイギリス人が鉄道員を相手に損害賠償の訴訟を起こしている。ほか父親の死が神経衰弱による病気であるとし、終身保険の支払いを拒む明治生命に対し、訴訟を起こす事件もあった。神経衰弱が社会的効力を持ち始めたことが分かる。

1903年、夏目漱石の弟子、藤村操が華厳の滝にて投身自殺。藤村の死後、華厳の滝で自殺を図った人数は185人、うち死亡は40人いた。神経衰弱による自殺に対し、世論の主流は病的細胞という切り捨て論、それに対して小説家の坪内逍遥は自殺の擁護論を雑誌、太陽に寄稿、大隈重信は1906年の精神病科談話会で、精神弱行、誠につまらぬ奴、さういふ弱い奴は活きて居てもかえって害を為す、と述べている。大隈は実弟が精神病を患っている、とも述べた。

当時、日本の専門家は神経衰弱が環境による心因ではなく、脳の異常による内因と見ていた。精神病者や自殺者の病理解剖によって、器質的な異常や脳の変異が発見されたことはない。

1900年代初頭、欧米の精神医学は神経衰弱に科学的根拠がないことを公にしている。その空白を埋めたのがフロイトによる神経症の概念である。一般認識として神経衰弱がエリートがかかる過労の証であったのに対し、神経症は不名誉で恥ずべき怠慢の証、にすり替わっていく。

呉秀三の後任、三宅は、過労による真の神経衰弱は全体のうち一割に過ぎず、そのほとんどが先天性の素質変性を抱えた神経質によるものだと述べている。さらに、1937年の臨床講義では、神経衰弱なる病名の濫用に言及し、神経衰弱という病名の廃止について呼びかけている。

1929年、赤十字社が開催した精神衛生展覧会で植松七九郎は、神経衰弱に原因はなく、一般の人よりも休養してあるにも関わらず、なかなか治らないものが多いと指摘している。さらに神経衰弱は生存競争場面における劣敗者の示す反応に過ぎないからだ、とも述べている。神経衰弱は過労から人格の病へと認識が変わった。

1920年代までに神経衰弱は身体や脳の病ではなく、人格の病であり医学の範疇ではないという認識が強まる。その後も新聞の衛生欄には読書の神経衰弱に関する相談が目立っていた。

森田療法の開発者、森田正馬は神経衰弱の症状があまりに雑多でありまったく主観的であり、代わりに神経質の治療の必要性を説いている。自己内省的、従って理知的なことを特徴とする一種の気質に過ぎず、森田療法によって正常な範囲にまで回復できるものである、とされた。

心理学者、中村古峡の記録によると、ビタミンやスペルマチンなどの注射を打つだけで、一向に精神衰弱を治してくれない医師に対する患者の不満を記録している。催眠術や気合術、大霊道、念射療法に迷い込んでみたが全く効果がなかったなど代替医療のブームをうかがわせる。

神経衰弱、神経質の患者数は太平洋戦争の準備時期から激減する。1942年、厚生大臣らへの報告で、当時の東大教授であった内村祐之は、神経衰弱の患者が1937年以降減少し、1942年で半数にまで減ったこと似ついて国民の士気の健全さの証という表現を使って報告している。

神経衰弱という病名は、戦後の精神医学において神経症、ノイローゼに置き換わっている。下田光造は、精神衛生談話で、神経衰弱という病名ほどあまねく知られ、濫用されている病名はない。精神病の初期などは大抵神経衰弱とされ会社の欠勤届には神経衰弱のためとあり、医者と病名が不明な患者に出会うと、神経衰弱だろうぐらいで片付けると述べている。現代のうつ病とも似た使われ方をしていることが分かる。

日本の精神疾患の歴史・古典的うつ病

神経衰弱が医学的な根拠のない人格の問題であるという認識が広まる一方、一見単なる神経衰弱に見えるが、生物学的基盤を持ち、異常者ではなく、規範者がなる精神疾患の例が報告される。1932年、下田三造が提唱したうつ病だ。

当初の病名は、初老期鬱憂症である。不眠と抑うつ状態が長く続き、休養によって回復せず、内科や婦人科、耳鼻科等を訪れる患者が多数いたという。正常人なら疲労がたまれば休養するが、彼らは疲労が達しても活動するという。一度起こった感情が冷めず、強度を維持、増強させる異常体質であると結論づけている。模範的な人物が多く、正直、几帳面、徹底的であり、欧米と違い女性より男性に多いとされている。

クレペリンの分類による躁うつ病との違いは、躁状態が見られないこと、躁うつ病患者が些細なことでもすぐ発症するのに対しうつ病の患者は重大な心身疲労から生じる点である。1950年代以降、抗うつ薬が登場したことで、うつ病は独立した病である、という認識が定着する。

当時のドイツでは、ナチズムの民族浄化と生物学的精神疾患観が協力体制にあったことなどから精神疾患の遺伝的決定論が見直され始めていた。社会的な視点から捉え直す動きが日本にも輸入され、テレンバッハのメランコリー親和型性格、という概念が台頭する。メランコリー親和型性格は下田が提唱するうつ病患者の性格とも合致し、それが現代のうつ病観の素となる。

1960年代、第一世代の抗うつ薬が販売、同時期に軽症うつ病の患者数が増える。理由について精神病理学者、笠原嘉は精神科外来の増加、薬物治療の進歩、啓発活動の高揚をあげる。

1969年の朝日新聞に不眠、体重減少、食欲不振を内科に訴えた女性がノイローゼと診断されて心配になったという相談が掲載される。東京女子医大の柴田収一は、うつ病であり投薬治療がよく効く、診察を受けるよう回答している。

1971年、笠原嘉は、統合失調症の患者数が一定であるのに対し、うつ病患者数が増加していることを指摘、1973年、東京慈恵会医大の新福尚武はうつ病の治療日数の延長、再発、慢性化などを指摘し、治療法に懸念を示している。

平澤一は著書、軽症うつ病の臨床と予後で器質的な原因による内因性の概念を批判している。

精神疾患治療法の歴史・瀉血療法ほか

ギリシャ時代における抑うつ症状は体液説により黒胆液が多すぎるため起きる病とされた。黒胆液のバランスを改善するための治療法としておもに行われたのが瀉血療法、血抜きである。1600年代の医師、ウィリスは、瀉血は豪胆に近いほどの勇気を持って行え、と述べている。

下剤によって黒胆液を出す瀉下療法も盛んに行われた。クリスマスローズという下剤がよく用いられたという。瀉血や瀉下は古代から近代まで、1870年代まで治療として行われていた。

治療薬としては、多幸感や陶酔感をもたらすアヘン、気分に効果のあるアトロピンを含む、ベラドンナが古代から中世まで服用されていた。

ローマ時代の医師、ケルススは、メランコリー患者には恐怖を避け、希望を与えてやるべき、患者の作品がなんであれ褒め、憂鬱がいわれのないものであることを穏やかに戒める、悩ませていることのまさにそのなかに、憂鬱よりむしろ喜びの源泉があることを繰り返し示す、など現代の精神療法とも似た考え方を述べている。

ヘビの穴療法、びっくり橋療法など患者を驚かせて治療する恐怖療法が行われた。ダーウィンの祖父、エラスムス・ダーウィンは回転椅子療法を考案、成果を上げたことから水責め、暗い小部屋に閉じ込める、鞭打ちなども行われた。これら非人道的な治療が廃止されたのは1800年代後半の医師、ピネルの批判からだった。

精神疾患治療法の歴史・精神療法ほか

ピネルが提唱したのはモラル療法、道徳療法と訳されることもある。ピネルの弟子エスキロールは、共感や慰め、理解、希望など現代の来談者中心療法的な要素について言及している。

1700年代後半、メスメルが動物磁気という概念を提唱し、治療効果をあげるが、メスメル以外がやっても効果が出ないため、暗示によるものと精神医学から認められることはなかった。

動物磁気はメスメリズムと呼ばれ、それをもとにブレイドが1840年に催眠術を開発、1800年代後半、神経学者のシャルコーによって、神経症に対する催眠療法の有用性が公表される。

1800年代後半、フロイトが催眠療法をもとに精神分析理論を提唱する。精神症状とは無意識が生み出すものであり、無意識のものを意識化させることで精神的な病気が治るという治療理論を確立、それ以降、精神分析による治療が盛んに行われる。その後も精神分析をもとに改良された精神療法理論が数多く考案されている。

1800年代後半、シャルコー、ジャネ、ブロイアー、フロイトによってヒステリーが広められる。催眠療法や精神分析が治療に用いられた。

1938年、チェルレッティとビニが統合失調症の治療法として電気けいれん法を考案する。

精神疾患治療法の歴史・抗うつ薬

1950年、ドレとドニケルは抗ヒスタミン剤のクロールプロマジンを統合失調症の患者に鎮静効果があることを報告、その後の研究で幻覚や妄想にも効果があると分かり、大ヒットする。

1951年以降、結核の薬イプロニアジドに抗うつ効果があるという報告が相次ぐ。同時期、抗ヒスタミン剤、イミプラミンの抗うつ効果も発見され、1956年頃から精神科治験が始まる。

イプロニアジドが肝機能障害を引き起こすことが判明、イミプラミンは三環系抗うつ薬として以降も長く使われることになる。その後もいくつか登場する抗うつ薬はイミプラミンの化学構造を変えて副作用のみを抑えたものである。

イミプラミンに抗うつ効果があることから、うつ病のメカニズムに関する仮説が生まれる。動物実験や試験管実験でイミプラミンが脳内のセロトニンやノルアドレナリンなどモノアミン類の濃度を上げる作用があることが判明する。

最初のSSRIはアストラ社のツェルミド、1972年特許、1982年にヨーロッパで販売開始されるが、ギランバレ症候群を引き起こす恐れがあることが分かり、市場から消える。その後リモキシプライドが発売されるが、再生不良性貧血の恐れがあることが分かり、市場から消える。

1993年、精神科医のピーター・クレイマーが著書、驚異の脳内薬品で、長年精神療法を受けていた人がプロザックを服用し、症状が消えて性格まで明るくなったことを報告している。

2006年、精神科医の田島治は著書、抗うつ薬の真実で、SSRIの作用について、まあいいか効果、感情麻酔薬という表現を使っている。また効果が強く出た場合、どうでもいいか効果、感情遮断薬になりうる、とも述べている。

医師が教えない精神医療の黒すぎる事実(簡易版)うつ病流行の裏にある真実

2019年5月25日

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