医師が教えない精神医療の黒すぎる事実(完全版③) 狡猾なうつ病の輸出戦略

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医師が教えない精神医療の黒すぎる事実(簡易版)うつ病流行の裏にある真実

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医師が教えない精神医療の黒すぎる事実(完全版①)謎の診断マニュアルDSM

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医師が教えない精神医療の黒すぎる事実(完全版②) 抗うつ薬の致命的副作用

2019年6月27日

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製薬企業による巧妙なうつ病輸出計画

DSMが普及する以前、もともと日本の精神障害観というのは、とても限定的なものだった。

精神の病気と言えば精神分裂病(現在の統合失調症)、躁うつ病(現在の双極性障害)、もしくは神経衰弱や神経症といったごく程度の軽いものか、そのぐらい診断名の範囲も狭かった。

もちろん障害者数も少なかった。正確な統計ではないが、1984年の精神障害者数は2014年の1/40、9万7千人だったと推計されている。

うつ病というのはあくまで躁うつ病の症状であって、独立した病気とはみなさなかった。つまり、マーケティング的に言えば、日本は抗うつ薬の市場性に乏しい国だったと言えるだろう。

文化精神医学の研究者、北中淳子は、イーライリリーのSSRI、プロザックが日本に進出しなかった背景には「日本人はうつ病にならない」という専門家の判断があった」と述べている。

イーライリリーの広報担当者はウォール・ストリート・ジャーナルの記事でこう述べている。

日本においてうつ病に対する一般の態度はとても否定的だった。

日本人のうつ病観は欧米人のそれとは根本的に異なるようだ。

日本には抗うつ薬の服用を望む患者がそう多くはいないだろう。

実際、プロザックは日本で発売されていない。

北中敦子によると「日本人にとって憂うつというのは病理ではなく美徳であった」という。

確かに日本人はどこか苦労や苦難を美徳と考えたり、耐え忍ぶことを是とするところがある。

不条理や矛盾によってもたらされる悲哀、憂うつと折り合いをつけることに慣れているのかもしれない。少なくともそれらを精神的な問題としてカウンセラーに話すとか、治療の対象として医師に相談するという文化は持っていない。

マギル大学文化精神医学研究者、ローレンス・カーマイヤーは、アメリカのうつ病の概念こそが世界的に見ても特異だと述べている。赤の他人に感情をオープンにしたり、精神的な苦悩をヘルスケアの問題とみなす点で独特だという。

仕事でも人間関係でも何でもそうだが、人が何かを我慢できるのは、他人もそれを我慢しているからであり、耐え忍べるかどうかは他人や世間一般など環境に左右されるところが大きい。

その点、日本は悲哀や憂うつへの耐性が高い文化であり、それらを医療化、治療するという概念がアメリカより希薄だったのは間違いない。

躁うつ病や統合失調症のような重篤なものを除き、せいぜい神経衰弱や神経症(ノイローゼ)など日常の範囲で治まるものがほとんどだった。

少なくとも、日常で遭遇する悲哀や憂うつ、不安を薬で治そうという発想はなかっだだろう。

裸足の国で靴を売るという話を思い出す。

裸足の国で靴を売るとは、靴という概念がなく裸足で生活している国で靴を売り込む場合、そもそもニーズがなければ売れるはずがないと考えて諦めるのか、むしろ潜在ニーズが膨大であると考えて積極的に攻めるのか、マーケティングを考える上で事例として使われる話である。

要は、うつがない国で抗うつ薬を売るわけだ。

イーライリリーは前者、ニーズがないから売れない、という消極的な選択をしたことになる。一方で後者、潜在ニーズが膨大にあるのだ、とアグレッシブな選択をした製薬企業があった。

それがグラクソスミスクライン(GSK)である。

攻めざるを得なかったのだろう。それというのも1999年時点で、GSKはパキシルを日本で発売するのに必要な許可をすでに得ていた。掛けた時間や費用を無駄にするわけにはいかない。

2000年、京都で抑うつと不安に関する国際的合意グループという会議がGSKの後援で行われた。日本の精神医療の歴史や精神障害観、うつや不安に対する価値観が共有されたという。

端的に言えば、マーケティング会議である。

GSKが日本におけるうつ病の概念を変えようとしていることにどのぐらい気がついていましたか?というジャーナリストの質問に対し、参加者の一人、カーマイヤーはこう答えている。

日本のメンタルヘルスの定義をつくりかえようとしているのはあからさまだった。出典:クレイジー・ライク・アメリカ イーサン・ウォッターズ

裸足の国で靴を売りたければ、靴を必要としなかった歴史を知る必要があるし、靴なしでどんな生活をしてきたのか、それに伴う痛みをどう感じているのか、理解しなくてはならない。

それと同様に、なぜ日本は精神医療を日常から遠ざけてきたのか、悲哀や憂うつとどう折り合いをつけているのか、抑うつや不安についてどう捉えているのか、などが議論されたようだ。

杏林大学教授の田島治は日本においてメンタルケアに対する関心が高まっていること、DSMによって診断が標準化されつつあることなどに触れ、変革の必要性について発表したという。

GSKにとって嬉しい話だったに違いない。

GSKによる京都会議に詳しい北中淳子は、どんな合意が成されたのかをこう述べている。

日本人は精神病に非常に抵抗が強いことから、体の病として精神病を広げたほうが良いといった戦略が採られていきます。出典:WEDGE Infinity(うつ病は日本でどのように広まってきたのか)

このコンセンサスは確かに的を射ている。

実は過去、日本でも精神的な病気が流行したことがあった。一つが江戸時代の鬱証(気鬱)、もう一つが、1900年代初頭の神経衰弱である。

鬱証(うつ病)の鬱という字は、例えば、草木が鬱蒼と生い茂るの鬱であり、ものごとが滞っている様子を示す言葉である。鬱証というのは気、湿、熱、痰、血、食などの滞りによって引き起こされる身体の病気と考えられていた。

神経衰弱も同様である。1900年代初頭の日本に神経という概念はまだなかったという。脊髄から身体の各部へと走る無数の糸が擦り切れることで精神的な不具合が起きる。このロジックは当時の日本人にとって画期的なものだった。

鬱証や神経衰弱が流行したのは、それらが性格や考え方の問題ではなく、あくまでも身体の病気であるという前提を含んでいたからだろう。

そして2000年以降、うつ病が流行した際も、それはあくまで身体(脳という器官)の病気、という暗黙の前提がうまく練り込まれていた。

それが”disorder”=疾患という誤訳である。

関西学院大学の精神科医、野田正彰はDSM-IVの日本語版で”mental disorder”という言葉が本来の訳語、精神障害ではなく精神疾患と訳されたことが病気の乱用につながったという内容を月刊誌、新潮45(2013年)に寄稿している。

“disorder”の本来の意味は、〜をするのが難しい、〜できないなど、機能的な不具合を示すものであり、疾患や病気という意味ではない。

しかし単なる障害をあえて疾患と訳すことで、まるで糖尿病や脳卒中、がんと同じように身体の病気という認識を植え付けることができる。

医学の定義上、厳密に言えば、精神の疾患というものはない。疾患とは原因と症状の因果関係が明確なものを指す概念であり、精神障害の原因は過去一度も見つかったことがないからだ。

“mental disorder”=精神疾患?

これは明らかな、分かりやすい誤訳である。

“disorder”の誤訳が故意によるものか、過失によるものか、情報を得ることはできなかったが、前者だとすれば巧妙で有効な戦術である。

実際、パキシルは日本市場で大ヒットした。

厚生労働省医薬食品局の調査によると、2008年度のSSRI服用者数は約263万人だった。うちパキシルの服用者は約123万人だという。

裸足の国に靴という文化を定着させたわけだ。

どのようにして日本に精神障害の文化が定着したのか、当時の出来事を振り返ってみたい。

“精神障害バブル”に踊らされる日本人

では、うつ病のない国、日本でうつ病か定着するまでの経緯を時系列で追いかけてみよう。

最初のスタートを切ったのはNHKである。放映はマーケティング会議よりも早かった。

1996年12月15日、NHKスペシャル、脳内薬品が心を操るが放映される。プロデューサーである滝口健一郎が書籍、驚異の脳内薬品をもとに番組を企画した。視聴者は数百万人、番組終了後に二千人以上から番組を讃える電話があった。番組の内容から、うつ病は心の風邪であるという有名な比喩表現が生まれたと思われる。

滝口健一郎が読んだのはアメリカでも大ヒットした、ピーター・クレイマーの書籍である。

1999年、日本で初のSSRIが発売される。

日本初の抗うつ薬はベルギー、ソルベイ社とライセンス契約した明治製菓から発売されたデプロメール、フルボキサミンだった。社長の北里一郎が、ピーター・クレイマーの著書、驚異の脳内薬品を読み、市場性を見出したという。

北里一郎の場合もピーター・クレイマーの書籍、驚異の脳内薬品がきっかけとなっている。

1999年8月18日、精神科医、酒井和夫は、東京新聞の取材に対して、SSRIは自信のない人に自信を与え、行動的にすると答えている。

アメリカの場合と同じように、発売当初はやはり画期的な薬である、と紹介されたようだ。

うつ病の認知度を飛躍的に高めたのは電通社員の過労自殺事件である。事件自体は1991年8月に起きている。まずは事件を説明しておこう。

1991年8月27日、電通の社員、大嶋一郎が自殺、1996年、大嶋の両親が電通に対して訴訟を起こす。当時は過労死が増えていた時代、マスコミは大嶋の死を過労自殺として報じる。

当時はまだ過重労働が問題視される前だった。社員の自殺について、なぜ会社側が責められるのか?理解するのが難しかった時代である。

1997年、大嶋の両親は東京地裁で勝訴、その後、電通が上訴し、東京高裁で賠償金が減額されるが2000年、最高裁は東京高裁の判決を破棄、ストレス、うつ病、自殺の因果関係が公に認められ、日本のうつ病観が大きく変わる。

伝統的な精神医療におけるうつ病とは、内因性うつ病を指す。内因性とは、原因や理由が見当たらないのに抑うつになるという意味だ。

過重労働という明らかな原因のある抑うつは本来的なうつ病ではない、それは疲れである。

しかし大衆にとってそんなことは興味がない。過重労働は精神的な病を引き起こす。この因果関係は、あっという間に日本中に広まった。

最高裁の判決が出る前、当時の労働省が動く。

1999年、労働省は全国の労働基準監督署に対し、職場の心理的負荷の評価法、精神障害対策に関する通達を行なっている。ストレスから精神障害が起きること、精神障害が労災の対象になることなど大きな方向転換が示されていた。

職場においてメンタルケアが声高に叫ばれるようになったのは、ちょうどこの頃からである。

ストレス、うつ病、自殺の因果関係が公のものとなったのは製薬会社にとって朗報だった。

医療人類学者の波平恵美子は、SSRIのメーカーが、うつ病と自殺の関連性を証明するための研究に資金を提供していた、と述べている。

うつ病が自殺を誘発することを証明できれば、抗うつ薬を売りやすくなるのは確かだろう。(その抗うつ薬が自殺を誘発していたのだが)

そして2000年、ちょうどパキシルが発売された頃からメディアによるうつ病の啓発活動が加熱し始めた。まずはテレビのCMである。

当時、放映されたものでもっとも知名度が高いのは、木村多江を起用したこのCMだろう。

いつからですか?

いつから我慢しているのですか?

うつは一ヶ月つらかったらお医者さんへ。

それ以上、我慢しないで下さい。

薬の宣伝ではなかったが、1997年、アメリカの診断インフレに火をつけた(処方薬を消費者に広告できる)DTC広告と効果は変わらない。

当時は不況の真っ只中である。精神的に追い詰められた会社員がターゲットだったのだろう。CMのスポンサーはもちろん、GSKである。

新聞にも以下のような広告が掲載された。

私は、

バリバリの

「鬱」です。

「うつ」を、いっしょに理解してください―

木の実ナナさんからの、お願いです。

日本で製薬企業が直接、消費者に薬を売り込むことは禁じられている。2000年2月5日、塩野義製薬は被験者募集の見出しで木の実ナナを起用し、抗うつ薬に関する広告を出している。

体裁はあくまで新薬の臨床試験の被験者募集だが、うつ病という病気を知らしめ、それが誰でもなる病気という認識を与えてしまった。

当時はインターネットが大衆化し始めた時期、ネットでもうつ病の啓発は行われたようだ。

処方薬の商品名を直接消費者に宣伝してはならない。しかし、インターネットの記載内容はそのルールの抜け道になっている。UTU-NETというサイトは、一見、患者擁護団体に見えるが資金提供しているのはGSKである。サイトのドメイン取得日は2001年6月29日であった。

さらに雑誌でも盛んに特集が組まれたようだ。

2002年、週刊東洋経済7月27日号で26ページの特集、心の危機は飛躍のチャンス、できる人ほどうつになる、か組まれる。要約すると、うつになるのは才能があって勤勉な働き者、専門家の力を借りるのが普通というものだった。

うつ=できる人、恥ずかしいことではない。

1900年代の初頭、神経衰弱が流行したときも、これと似たような大衆化が起きている。

テレビ、新聞、ネット、雑誌、様々な媒体でうつ病が啓発されたが、内容的にもっともインパクトがあったニュースはこれで決まりだろう。

2004年、宮内庁は皇太子妃が適応障害の治療中であることを発表する。抗うつ薬を服用していたことが明らかとなる。皇太子妃の主治医は2000年の京都会議の参加者、大野裕である。

どの国でも王室は、例えば、ロイヤルファッションのように、その国民の価値観を左右する絶大な影響力を持っている。皇室のお一人が精神の病を患い、公務を欠席されたという報道が精神障害のハードルを下げたことは間違いない。

これで概ね、うつ病の輸入は完了である。

あとは行政や産業、福祉、司法、社会、教育などの他分野が、用意された精神障害観(DSM)を採用し、大衆もそれを喜んで受け入れた。

精神障害が文化として定着したわけである。

1999年の気分障害患者数は44万人、6年後の2005年は92万人、倍増するまで10年も掛かっていない。いまやうつ病は、日本人にとってなくてはならない、馴染み深い病気となった。

カーマイヤーはGSKによる一連のうつ病啓発活動について、このように危惧している。

それに伴う変化は遠い将来まで広く影響を与えるだろう。ある文化が人間性をどう考えるか、人々が毎日をどう暮らすか、といった文化や道徳、常識のあり方を決めてしまうからである。出典:クレイジー・ライク・アメリカ イーサン・ウォッターズ


以上、精神障害の啓発活動についてまとめるとGSKのマーケティングが最初にあったのは確かだろう。しかし、国家の価値観を一社が単独で変えるなどというのは無理なことである。

NHKや民放テレビ局、新聞社のようなメディア、司法や行政、製薬企業、精神科医、そして情報を受け取る側の消費者も含め、日本国民全員で新しい精神障害観を受け入れたわけだ。

諸手を挙げて歓迎した、と言ってよいだろう。

私たちがDSMやSSRI、新しい精神障害観を迎え入れたのは、当時それらが必要なものだったからであり、そういった文化や価値観の変遷、社会全体の動きをとやかく言うつもりはない。

ただし、これからどうしたいのか?一人ひとりが真剣に考える必要はある。昨今、日本で起きている問題の多くが、精神医療に関する三つの勘違いから生じている可能性があるからだ。

精神医療に関する重大な三つの勘違い

これ以降の記事は編集中です

今後、記事ができ次第、随時追加していきます、しばらくお待ちください。

精神医療に関する三つの勘違い

  • 精神障害は疾患である
  • 精神障害は治療できる
  • 精神医療は医学である

これらはかなり大仕掛けな勘違いである。冷静に考えれば誰でも分かることなのだが、そう思えないのは、既成事実の歴史が長いからだ。

上記三点は、およそ2,500年前、古代ギリシャ時代からなぜか盲信されている前提である。

それを証明できた者がいないにも関わらず、昔からそう考えられてきた、という歴史の積み重ねによってこれらは正しいと思われている。

宗教の盲信と構図は似ているかもしれない。

しかし本記事を読んだ後なら分かるはずだ。精神医療はあまりに黒すぎるし、信用ならない。

おさらいを兼ねて三つの勘違いを見ていこう。

1.精神障害は疾患である

精神症状の出る身体の疾患はある。例えば、アルツハイマー型認知症や甲状腺機能亢進症、全身性エリテマトーデスがその代表例だろう。

しかし純粋な精神の疾患は一つもない。

気分障害、不安障害、強迫性障害などは機能的な不具合を指しているに過ぎず、これらを病気たらしめているのは、便宜上の定義である。

もちろん、社交不安障害、心的外傷後ストレス障害、発達障害、適応障害、注意欠陥多動性障害も疾患ではない。それを病気とみなすかどうか決めているのは、投票による多数決である。

そんなものを糖尿病や脳卒中、心疾患、がんなど本物の病気と同一視するのはおかしい。

誤った情報が広がっているが、精神病に関係する遺伝子については、長期間の試練に耐えて証明されたものは何ひとつ存在しない。(ハーバード大学医学部精神科医、ジョセフ・グレンミュレン)

精神医学には、精神障害の有無を決定付けるような、客観的な検査、X線、臨床試験、検査所見などありません。DSM第IV版調査特別委員会会長、アレン・フランシス

DSMに掲載されているさまざまな障害は、血液検査や脳スキャンや物理的な発見に基づいたものではありません。それは、行動に関する記述に基づいたものです。まさにそれが精神医学全体の仕組みなのです。(精神科医、コリン・ロス)

精神障害=疾患、これは勘違いである。

2.精神障害は治療できる

疾患でも病気でもないものを治すというのは、医学というよりも言語学的に間違っている。

疾患や病気でないものを医療化しているのは出産を除き、精神科医と心療内科だけである。

妊娠や出産が医療化されているのは母子の命を損なう危険性があるからだ。一方、精神障害そのものによって命を落とすことはありえない。(多剤投与や副作用で死に至ることはあるが)

瀉血(血抜き)療法、瀉下(下剤)療法、ヘビの穴療法、びっくり橋療法、回転椅子療法、マラリア発熱療法、ロボトミー手術など、過去、精神医療は治療と称する拷問、殺人の実績がある。

われわれは(どんな精神疾患に関しても)その原因を知らない。われわれはこうした疾患を『治療する』手段をいまだ持っていない。(アメリカ国立精神保健研究所元所長、レックス・コウドリー)

精神科医が、自分たちは精神疾患を治療できると考えることができた時代は終わった。今後、精神病者は自分の病気と共存することを学ばなければならないだろう。(世界精神医学会会長、ノーマン・サルトリウス)

治すとはどういうことだろう?…それは、われわれが医学的な(精神医学の)専門的職業では使わない用語だ。(カリフォルニア州精神科医、ジョセフ・ジョンソン)

今回は取り上げていないが、精神科治療薬による薬害の例はSSRI以外にも多数ある。例えば、統合失調症治療薬の抗精神病薬や抗不安薬、睡眠剤にもSSRIと同等か、さらに致命的な副作用をもたらすリスクが確認されている。

精神障害が治せないのは医療のせいではない。そもそもそれは治療するという言葉の対象ではないからだ。治せないもの治せるとうそぶき、わざわざリスクを施すことは治療ではない。

精神障害=治療可能、これは勘違いである。

3.精神医療は医学である

精神医療を医学とみなすかどうか?それは定義の問題であり、最終的に人が決めることだ。

定義とは有用性に基づくべきであり、もし精神医療を医学と認めることで精神障害が減るなら、精神医療=医学と定義すればよいだろう。

日本以外でも、DSMやSSRIを導入した国における精神障害の患者数は劇的に増えている。

根拠のある原因を伝える医療的な診断、適切な治療、そして正しい予見と違い、DSM第IV版に列挙されている障害は、同業者の同意によって生まれた用語です。(精神科医、タナ・ディニーン)

一般市民も、精神科医自身も、やがて気付くでしょう。DSMの病名が医学的な診断として役立たないというだけでなく、とりわけ個人の自由を否定するために使われたり、法的なシステムに対する殺し屋として振舞う精神科医の武器として使われた際に大きな害をもたらす可能性を持っていると思います。(精神科医、シドニー・ウォーカー)

要するに、精神医学的な障害のカテゴリーをつくり出し、意見の一致によって公認させ、そして保険請求のために診断コードを割り振るというこのビジネスは、大掛かりな不正行為そのものであり、精神医学に疑似科学の雰囲気を与えている。その犯人はもちろん、世の人々を食い物にしているのだ。(カナダ王立医科大学特別研究員、トーマス・ドールマ)

定義の問題をいじくり回すことは、実益がないという点で神学論争とよく似ている。そもそも原因のないものは疾患でないし、ましてや治せないものを医学と呼ぶ理由はどこにもない。

精神医療が医学と呼ばれているのは、昔からそうだったからであり、それは器質的な原因があるという希望的観測によって維持されてきた。

遺伝子研究や神経科学が明らかにしたのは、精神的な障害に原因はないということである。

精神医療=医学、これは勘違いである。

これら三つの勘違いは過去にも指摘されだことがある。1961年、精神科医のトーマス・サズはThe Myth of Mental Illnessという書籍で精神障害は医学の問題ではないこと、それは人生の問題に悩む人、社会的に逸脱した人に貼られたレッテルに過ぎないことを主張している。

残念ながら、この反精神医療運動は失敗に終わっている。その経緯は別の記事で説明したい。

止まらない精神医療の暴走!劣等感をこじらせた精神医療の恥ずかしい歴史

2019年7月6日

精神障害=権利主張の新たな表現方法

精神障害は疾患である、精神障害は治療できる、精神医療は医学である、これら三つの勘違いは、精神医療のパラダイムと言って良い。

パラダイム(paradigm)とは、ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことです。狭義には科学分野の言葉で、天動説や地動説に見られるような「ある時代を牽引するような、規範的考え方」をさします。出典:WORD-WISE WEB

例えば、天動説(地球中心説)というパラダイムが過去、信じられていたのは、アリストテレスやプトレマイオスがそう言ったから、である。

それと同じように精神医療のパラダイムが現代でも信じられているのは、ヒポクラテスやアリストテレスがそう言ったから、に過ぎない。

それらが否定されなかったのは、それによって恩恵を受ける者の力か強大だだから、である。

天動説の場合、コペルニクスやガリレイ、ケプラーがそうでないことを科学的に証明した。しかし、精神医療パラダイムが誤りであることを科学の範疇で証明することは難しいだろう。

なぜなら科学が求めているような本当の意味で客観的な病因論など、どこにもないからだ。イアン・ハッキングの考え方が分かりやすい。

哲学者のハッキングによると科学の対象には二つのカテゴリーがあるという。一つは自然種、例えば、原子のように人の解釈や定義、介入の影響を受けないものを研究対象とする場合だ。その場合、観察者と対象は完全に切り離されており、客観的な対象を捉えることができる。

もう一つが相互作用種、これは人の解釈や定義、介入によって対象が影響を受ける。ある病気の定義が世間で認知されると、病気が流行することがある。観察者が見ている対象は観察者の介入によって性質が変わるため、切り離された客観的な対象というものが存在しないのだ。

観察者と観察対象の間に相互作用、フィードバック関係があると言い換えてもよいだろう。

精神医療は明らかに後者である。例えば、権威ある精神科医が新しい精神障害名を発表し、マスコミがそれを報じる。すると、なぜか障害の症状そっくりの訴えを起こす患者が激増する。(身体の病気でもそういうことは少なくない)

過去の例で言えば、ヒステリーや神経衰弱、多重人格障害などが代表例だろう。これらは一時期、爆発的に流行したが、ある時期を境にパタリと止んだ。現在の日本で流行しているのはうつ病、発達障害、注意欠陥多動性障害である。

精神障害が流行する現象について、イーサン・ウオッターズは著書の中でこう述べている。

「心の中の苦しみを認めてもらおう、正当化しよう、という潜在意識が目的を達成できる症状へと引き寄せられていく。疾患の正式名称を公にするのは危険を伴いかねない」とのことだ。

要は、DSMの診断名は、人生の理不尽や不条理、矛盾に対する抵抗、批判、拒否の表現方法のバリエーションとして機能しているわけだ。

だとするとDSMは精神障害のデザイン、アメリカ精神医学会は精神障害のデザイナー、精神科医はそれを販売する営業マンで患者は個性に合わせて好みの障害を選択することになる。

文化人類医学の研究者である北中敦子は、近年の精神障害の増加について「社会運動としての医療化」という表現を使って説明している。

精神障害というのは、例えばデモやストライキ、人権運動、ne to運動、こういう権利主張の延長にある新たな表現方法と言ってよい。

例えば、性同一性障害が分かりやすい例だ。

個性や人権、尊厳を訴える表現の一つ、それの意味するところは、私を大事にして!である。もっと私を見て、私を理解して!でもよい。

だとすれば、医療が解決することだろうか?

少なくとも、医療一人の手に負える問題ではないし、哲学や社会学の手助けを借りない限り、ことの本質にたどり着くことさえできない。(本当はうすうす感づいているかもしれないが)

精神医療が役割を降り他の分野に引き渡すか、それらと手を繋ぐため、製薬企業と縁を切り、握りしめている薬を手放す必要があるだろう。

いずれこういった知識も整理され、医療に縛られない新分野が生まれるかもしれない。精神医療パラダイムを盲信している私たちのことを未来人はどのような目で見ているのだろうか?

精神医療のパラダイムが日本を滅ぼす

まずは起きている現実と向き合うべきだろう。

精神医療のパラダイム(精神障害は疾患、精神障害は治療可、精神医療は医学)は医療以外の分野にも侵食し、致命的な影響を与えている。

実際、行政、司法、産業、福祉、教育、社会は精神医療のパラダイムを容認してしまった。それによって起きた不可逆的な変化は、各分野で取り返しのつかない事態を引き起こしている。

身近な例として産業分野を見てみたい。

産業(精神障害労災認定)

産業で起きる問題の代表例は、精神障害の労災認定だろう。心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針、心理的負荷による精神障害の認定基準、これらはいずれも仕事のストレスと精神障害の因果関係を前提としている。

DSM以前、原因が明確な精神異常を病気とみなすことはなかった。過労や疲労が病気となったのはDSM導入後、電通自殺事件のあとである。DSMの診断基準は一般に公開されている。誰でも精神障害を装うことは可能だろう。

2017年度、脳や心疾患の労災請求件数が840件(1.8%増)であるのに対し、精神障害は1,732件(9.2%増)、5年連続で増加しているという。

さらに近年の精神障害バブルを後押ししたのは2015年、労働安全衛生法の一部改正によって設けられたストレスチェック制度、である。

事業者は常時50人以上の従業員がいる事業場において定期的にストレスチェックを実施しなくてはならない。筆者も導入初期、本制度に関わったことがあるが、実質、炙り出しだった。

高ストレス者と判断されると、事業者は面接を実施しなくてはならない。面談するのはたいてい産業医である。彼らは精神医療の診断に根拠がないことも治療法がないことも知らない。精神科や心療内科を受診するよう勧めるだろう。

さらに2018年から、企業の障害者雇用義務に精神障害者が追加された。障害者雇用を行政が推進するのは悪いことではない。しかし、身体障害と違い、精神障害に気質的な原因はない。

多くの場合、本人も企業も精神障害のことを医学が認める正当な疾患だと信じているため、気分の調整や意思疎通が難しいとか、社会性や協調性に難があるなど、本来の障害の意味を見誤り、そういう病気だから、で片付けてしまう。

病気の名札は免罪符にもなるが、同時に見限りのニュアンスを醸し出す。労働者側、雇用側、いずれにとっても有益な結果をもたらさない。

厚生労働省が障害者の離職率を推計した結果、精神障害者の離職率が、身体障害者や知的障害者と比べて有意に高いことを認めている。

産業分野一つとっても精神医療のパラダイムを容認したことで起きた問題は山のようにある。

他分野の問題についても簡単に触れておこう。

行政(メンタルヘルス対策)

心の健康基本法、睡眠キャンペーン、ゲートキーパー政策などメンタルヘルスに関する政策はどれも精神医療を前提として考えられている。やればやるほど、患者数が増えていくだろう。

司法(刑法第39条)

刑法第39条が代表例である。心神喪失者に認定された場合は免罪、心神耗弱者の場合は減刑される可能性があるが、その対象は、たいてい統合失調症患者である。彼らの攻撃性や衝動性は神経遮断薬の影響によるところが大きい。医原性の問題を医療が免罪していることになる。

福祉(社会保障負担)

アメリカの社会保障制度、SSIやSSDIはDSMを診断に導入した1980年代以降、激増している。日本でも同様、障害年金受給者、生活保護受給者は増えている。人口全体のうち精神障害者の割合は2.5%だが、生活保護受給者のうち精神障害者の割合はその6倍、15.9%である。両者が相関関係にあるのは間違いないだろう。

ほか精神障害者に適用される自立支援医療の経済的負担も小さくない。負担を背負うのは国や自治体、企業、そして健康な人たちである。

教育(しつけや教育の医療化)

最大の問題は、しつけや教育が医療化されることだろう。アメリカにおける子どもの精神障害は数十倍というありえない単位で増加しているし、日本もそれに追随していると考えて間違いない。教育の本質は社会性を養うことにある。

社会性や協調性を発揮できないことを病気のせいにし、しつけや教育を疎かにすれば、社会適応できない人が蔓延するのは目に見えている。

ペットの犬がお手無反応性障害を発症するのは病気ではない。訓練方法に問題があるからだ。

例えば、発達障害というのも社会性トレーニングの不備、不足から起きる。教育の問題を医療化することで問題解決はさらに遠のいていく。

社会(個人主義・モラルハザード)

産業や行政、司法、福祉、教育における上記の問題は最終的にモラルハザードを引き起こす。精神医療のパラダイムは、日本人の文化や価値観、生き方のスタイルまで変えてしまった。苦労や悲哀を美徳とする文化は廃れ、精神障害をアイデンティティとして表現する人も増える。

DSMの精神障害カテゴリーは500もあるが、あらゆる障害の症状に共通するのは、いずれも社会性に欠けるということだ。精神活動は他人や社会との関係で発揮される。その機能に障害があれば、社会的に振る舞えないのも当然だ。

人が忍耐や我慢をできるのは、隣人もそれを耐え忍んでいるからだ。精神障害を理由に社会性をはねつける人が増えれば増えるほど我慢できない、耐えられない人たちが増殖するだろう。

今後、日本でもアメリカ人のように個人主義を当たり前と考える人が増えていくはすだ。一人ひとりのミーイズムが社会の全体性を崩壊させる。日々、至るところで犯罪に至らない程度の反社会的な行為が蔓延することになるだろう。(もちろん、衝動的な犯罪も増加するだろう)

とうぜん、日本の社会がおかしくなっているのは精神医療の影響がすべてではない。もう一つ強力な要因があるとすれば、それは市場経済である。それについてはまた別の記事で論じる。

繰り返しになるが、精神疾患はないし、精神医療は精神障害を治療する手段を持っていない。

いかに社会や人生が理不尽でも、不条理でも、どんなに不安でも、苦しくても、つらくても、配偶者や家族、友人、仲間と協力して乗り越えていく以外、残念ながら解決策などないのだ。

本来、人は人生や社会の理不尽、不条理に立ち向かい、不安や危機を克服する強さを持っている。それは元から強いという意味ではなく、困難と対峙し、仲間と協力しあうことで、精神的に成長する素地を持っているという意味だ。

人は元々そういう風にできている。驚異的な適応力や柔軟性、環境変化に屈しない力強さ、これらを獲得し、発揮するのに必要だったのが、幼少期における社会性トレーニングである。

2013年、DSM-IV日本語版の翻訳を務めた大野裕は、DSM-5で軽度の障害を含めたため、人間が自然に持っている「こころの力」を見落とす危険性が高くなっていると述べている。

社会を変えることなどできない。それは実体を持たない概念だからだ。社会をつくっているのは私たち一人ひとりの振る舞いであり、それをかたち造っているのは、どう生きるのか?に対する答え、つまり一人ひとりの人生観である。

メンタルヘルスは医療の専売特許ではない。むしろあらゆる活動がメンタルヘルスの影響を受けているはずだ。よりよく生きたければ、より健康なメンタルを維持しなくてはならない。そういった広義のメンタルヘルスを実現するのに精神医療が無用であることは言うまでもない。

再度、ローレンス・カーマイヤーの懸念を引用する。その上で、自身のメンタルとどう向き合い、どう生きるのか?よく考えてもらいたい。

それに伴う変化は遠い将来まで広く影響を与えるだろう。ある文化が人間性をどう考えるか、人々が毎日をどう暮らすか、といった文化や道徳、常識のあり方を決めてしまうからである。出典:クレイジー・ライク・アメリカ イーサン・ウォッターズ

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